森・濱田松本法律事務所。いわゆる「ビッグ4」と呼ばれる日本有数の大規模法律事務所だ。弁護士数約280名(外国法事務弁護士1名)。外国人弁護士(トレーニー)、司法書士有資格者、パラリーガルなど約420名のスタッフを合わせると、総勢700名の大所帯。その前身の一つが森綜合法律事務所(以下森綜合)。飯田隆氏は、揺籃期を支えてきた弁護士の一人だ。
「私はね、実務修習が森綜合だった。古曳正夫弁護士の司法修習生、第一号でした。司法修習委員いわく『飯田は柔道部で元気も体力もありそうだから古曳さんにぴったりだろう』ということで。当時のメンバーはわずか4人。中でも同期同士の古曳さんと本林(徹)さんは、『日本一の事務所をつくろう』と、血気盛んだった。そんな彼らの意気に感じて、修習終了後、そのまま入所しました」
入所は1974年。弁護士6人とスタッフ5人の、丸の内の一角に構えられた18坪の事務所が、飯田氏の「根城」となった。
当時は、福田浩氏が40代、古曳正夫・本林徹両氏が30代半ば、久保利英明氏が20代。飯田氏の司法修習期間中に入所した内田晴康氏が20代。みんな元気で気概があって、「わいわいがやがや、楽しい事務所だった」と振り返る。
「ナマの事実に真正面から取り組んで法律構成していくことの、その面白さ。それは感動的だった。入所してからはもちろん、修習生のころからあれほどの体験ができたことは、間違いなく私の財産です」
柔道部にささげた大学生活
飯田氏は姫路市の生まれ。実家は、油卸を営む小さな中小企業だった。
「姫路の田舎で、親せきが近隣にいっぱいいたんですよ。その親せきの家を回って『お祭りをはしごする』子どもでした。お祭り好きはいまだに変わっていませんね。お祭り好きな父の血を引いたのでしょう。受験勉強に集中しなくてはいけない高校3年のときですら、太鼓の音が聞こえてくると勉強を放り出してお祭りに行ってしまったことがありましたよ」と飯田氏。それでも現役で東大法学部に入学。高校のころから始めた柔道を続けたくて、柔道部へ入部した。
「大学の柔道部では、東京オリンピックでヨーロッパの寝技柔道に日本柔道が完敗した直後だったので、寝技ばかり練習していました。寝技は非常に物理学の原則にかなったもの。立ち技には天性のひらめきが必要だが、寝技は努力と練習次第で強くなれる。それが私にぴったり合った。派手さはないが面白かった。私の現役時代のエピソードを一つお話ししましょう。山下泰裕さんの師範で、当時中量級の世界チャンピオンであり、寝技は世界一といわれた方と練習試合をした際、彼は私を押さえ込めなかった。ついに彼は『立ってこい』と大声で叫んだ。その逸話は柔道部で語り継がれていて、私の自慢。立ち技中心の講道館では二段でしたが、寝技なら自称四段(笑)」
毎日の練習のほかに合宿と遠征が年間100日余りはあったという。四年の夏に引退し、そろそろ真剣に勉強しようかと思った矢先、東大紛争が始まった。安田講堂事件があった年だ。
「柔道部OBの院生や助手が大勢立ち上がりました。みな素晴らしい人ばかりで、それは、ものすごく感じるところがあった。先輩たちの姿を見て、弁護士になろうと。弁護士としての出発点は、やはりそこでしょうね」
飯田氏は弁護士を目指したときの思いを、多くは語らない。しかし東大闘争を間近に見た多くの法学部生が職業として弁護士を選択したのと同様、飯田氏にも同じ思いがあったのではなかったろうか。
いろいろと考えるところがあって、もう1年間柔道をやり、それから柔道部で鍛えた体力にモノをいわせ、10カ月間猛勉強した。面倒を見てくれる先輩の助けもあって、無事に司法試験に合格。しかし司法研修所に入るまでの間、姫路に帰郷する。
「実は、司法試験の合格発表直後に結核を患っていることが分かり、療養所に入っていたんです。今でこそ結核は治せますが、当時はまだ亡くなる方がたくさんいました。生と死を見つめ、それについて考える時間でした。それは私の人生にとって、意義があったように思います。実は長年、この話は秘密にしていた。私は柔道部出身で元気があり、体力勝負の弁護士だって周りから言われているからね(笑)」
飯田氏は1年遅れて「退院見込み」で司法研修所に採用される。その後の実務修習をきっかけに、森綜合の先輩や仲間と協働していくようになる。...(以下略)