「刑事弁護は弁護士の使命」、刑事弁護人こそが反権力の象徴であり、冤罪(えんざい) からの救済を実現する、弁護士のあるべき姿と考える人も多いだろう。しかし「刑事弁護にこだわり抜く」のは、生半可な覚悟では成し得ない。横浜事件、足利事件などの再審事件で知られる佐藤博史氏は、どんな事件にも全力で取り組んできた。「刑事弁護の鬼」「情熱の刑事弁護人」と評される氏の、その生きざまを見てみよう。
「刑事弁護」に興味を抱いた少年時代
1948年、佐藤氏は島根県出雲市に生まれた。
「45年8月6日、母は広島で原爆に遭いました。3年後に生まれた私は、いわゆる被爆2世です。そのせいか、小さなころは、虚弱体質で病気がちだったそうです。そのため幼稚園には通えず、小学校で初めて、集団生活を体験したんです。今の私からは想像できませんが、集団生活に不慣れなため、人前で声を出して本も読めない、無口な子どもでした」
そんな内気な少年も、次第に人前で話せるようになり、やがて父親の影響で刑事裁判や法医学の本を読みふけるようになった。
「税務署職員だった父は当時、『全国税』という労働組合の活動を熱心にやっていたんです。そのため、当時全国的に盛り上がっていた松川事件や八海事件の裁判闘争をめぐる本、あるいは古畑種基氏の『法医学秘話 今だから話そう』などを子どもながらに読んでいました。そして、今の私につながる決定的な体験が、小学生のとき父に連れられて『真昼の暗黒』という映画を見たことです。正木ひろし弁護士が八海事件を描いた『裁判官 人の命は権力で奪えるのか』を原作に、56年に映画化されたもの。冤罪を訴える主人公が、拘置所の面会室で年老いた母に、『おっかさん、まだ最高裁があるんだ、まだ最高裁がある』と叫ぶラストシーンに衝撃を受けました。いま考えると、それが刑事弁護人にあこがれた最初でした」
映画を通じて佐藤少年の心に刻み込まれたのは、「社会的に無力な人も、『真実』によって、死の淵(ふち)から生還できる。最後に『真実』が勝つ場所が刑事法廷なのだ」という、シンプルな事実。『真昼の暗黒』という映画と出会い、そのシンプルさに心を打たれたことが、刑事弁護人を志すきっかけとなったわけだ。
やがて中学校を経て、広島市内にある男子校・私立修道高校へ入学。
「私は刑事弁護に関心は持っていましたが、高校二年生までは医者になろうと思っていました。子どものころ、病弱だったせいだと思います。ところが、進路相談の際、担任の先生から『君は文系だね』と言われてハタと気付いた。そうか、自分が本当にあこがれたのは刑事弁護人だったんだと。それからは、東大法学部を目指すことしか考えませんでした」そして、修道高校を首席で卒業。67
年春、佐藤氏は現役で東京大学法学部へ入学した。
藤木先生の助手をして得た「弁護士人生における財産」
法学部に入学してからは、「自分は将来刑事弁護人になる」と周囲に言い続けた。そして、正木ひろし弁護士の講演を聞き、刑事弁護人への思いを一層強くした。
「正木弁護士が講演したのは、正木弁護士自身が丸正名誉毀損事件(※1)の控訴審で有罪とされて上告中、八海事件は最後となる第3次最高裁判決が下されようとしていた時期でした。正木弁護士は、『刑事弁護人は、ときに自らの職を賭して弁護しなければならないときがある』と学生に説かれました。それは、自らが刑事被告人になっても依頼者の雪冤のために闘うという、ご自身が身をもって示された『刑事弁護の根底にあるもの』を私たちに伝えようとした言葉でした。『“でもしか弁護士”になるなかれ』と言われたのも、鮮明に記憶に残っています」
この二つの事件に加えて、映画『首』の原作となった『首なし事件の記録』(※2)など、正木弁護士の弁護活動と生きざまが佐藤氏に与えた影響は多大だ。佐藤氏も自身の著作で「正木弁護士の弁護活動はまねることができない強烈な光そのものである」と著しているほどだ。刑事弁護人へのあこがれは、大学入学後、刑事弁護に関する文献を読みあさり、直接的な知識も得て、次第に「実像」へと肉付けされていった。
「大学三年のときに司法試験を受けたものの、試験問題は半分以上何のことか分からず、当然落ちました。四年になって、刑事弁護人になるためには司法試験に合格するだけですので、大学院へ進学して司法試験の勉強をしようと考えた。専攻科目を司法試験でまったく分からなかった刑法とすることにし、藤木英雄先生(※3)に指導教官をお願いしました。
今にして思えばとんでもない話ですが、『なぜ君は刑法を選んだのか』と先生に聞かれて、『司法試験を受けたが、刑法の問題がよく分からなかったためです』と正直に答えました。すると先生は大笑いし、『大学院を予備校代わりにすることは認められないが、まじめに勉強しなさい』と言って、指導教官になることを引き受けてくださいました。ところが数日後、先生から『君の成績だと助手になれることが分かった。志望を大学院から、助手に変更するつもりはないか』と問い合わせがありました。授業料を払うか、給料をもらうかでは断然違いますし、そもそも助手には誰でもなれるわけではありません。そこで、研究者になろうと考えを変え、助手の願書を出し、無事、内定をもらいました」
東大闘争のあおりで、卒業は71年6月。翌月から藤木教授の助手となったものの、刑事弁護人への夢は捨て難く、すぐに辞職の申し出をした。佐藤氏は、藤木教授の助手第1号。藤木教授の期待も大きかっただろう。藤木教授は「夏休みの間じっくり考えて、それでも考えが変わらなかったら認めよう」と諭した。しかし志は変わらず、4カ月で助手を辞めた。
「藤木先生には、言葉に尽くせないほど感謝しています。大変な不義理をしたにもかかわらず、その後ゼミに呼んでいただき、研究会への出席も許されました。藤木先生に『寄り道』させていただいたことが、今の自分にとって間違いなくプラスになっています。刑事弁護人としての道を歩みながら、日々の実務に埋もれることなく、経験を少しずつでも普遍的なものにすることを考え続けてこられたのは、とりもなおさず、藤木先生のおかげです」...(以下略)