高木新二郎氏は、倒産法・事業再生法の専門家として知られる。近年はJAL再生タスクフォースリーダーとして尽力した。高木氏がこれまでに国内外で発表した著書論文は実に300本以上。倒産法制、とりわけ事業再建法制に関する論文は群を抜いて多い。会社再建モデルを革命的に変える実務経験に裏付けられた提言を行い、日本経済の活性化に貢献してきた。弁護士としてひとかどの人物になるのも並大抵のことではない。しかし高木氏は、企業再建を基軸としてさまざまに「変身・転身」し、そのつど成功を収めてきた人物である。
自らの努力で道は開けると実感した司法試験
高木氏は、1935年生まれ。幼少期は疎開で千葉などを転々とした。「父は大工で、私が物心つくころには工務店をやっていました。後にタクシー会社、不動産、金融業などの事業を興し、仕事はそれなりだったようですが、家庭は崩壊。両親は離婚し、私は父と暮らしました」
高木氏は中学2年のころから、マルクス主義経済学や弁証法的唯物論の本を乱読。早稲田大学高等学院に入学するころには、端的にいえば「人はみな平等であるべき」という革命思想・共産主義に没頭していった。
「それで父と大げんかをして勘当されました。高校は無断欠席・学費不払いで除籍処分です。町工場に勤めた後、党関係活動に専従しました。やがてスターリンが亡くなり、日本の共産党にも転機が訪れ、それまでの革命路線から180度方向転換して、反主流派だった穏健派がイニシアチブを取りました。しかし党中央の変心に器用に付いていけなかったので、一度頭を冷やして考え直そうと決意し、大学進学を選択。籍は置いていたが出席していなかった夜間高校に戻り、中学時代の教科書までさかのぼって、猛烈に受験勉強をし、なんとか進学できました」
高木氏は、中央大学法学部に入学。「就職難の時代に自分にできるのは自由業、それも弁護士だけだ」と腹は決めていた。既に同学齢の仲間から2年遅れていたので、大学2年の中ごろから司法試験を始めたが、「失恋して1年近く勉強が手に付かなかったこともあった」と笑う。
在学中の司法試験合格の願いはむなしく、受かったのは卒業した年。
「落ちたときは大変ショックでしたが、『受からねば人生は開けない』と思って踏ん張りました。司法試験に没頭したおかげで、それまで抱いていた共産主義への思いや、迷いもふっきれました。努力すれば、はい上がれると分かったからです」
こうして高木氏は、弁護士への第一歩を踏み出した。
「倒産法の高木」の萌芽(ほうが)と開花
修習後は“即独”を決めていた高木氏だが「まあ、うちに来いよ」と誘ってくれた渡部喜十郎氏※1のもとにワラジを脱いだ。
「給料は初めの3カ月だけいただき、4カ月目からは辞退して、自分の事件を受任させてもらいました。まる1年ご奉公のつもりで事務所を手伝い、長年継続していた破産管財事件を、私の代でほぼ終わらせました」
翌年から名実ともに独立。ついた顧客は中小企業、それもオーナー経営者がほとんどだった。
「高度経済成長期で起業も盛んでしたが、倒産もその分多かったのです。当時は、倒産再建には暴力団風の事件屋・整理屋が乗り出すことが普通で、多くの弁護士は倒産事件にかかわりたくないと思っていた時代。しかし新米の私に事件や依頼者を選ぶ余裕はなく、人が嫌がる倒産事件を受け、公正な処理を心掛けました。事件屋の横暴さに腹が立ち、とっくみあいをしたこともあります(笑)」
高木氏が「倒産再建事件の専門弁護士になれるかもしれない」と感じたのは、技研興業の会社更生事件のとき。35歳、弁護士7年目のことだ。
「東証一部上場会社だった技研興業が、別荘地開発などの事業に手を出して失敗。手形の不渡りの前日になって突然相談がありました。私を含む3人の弁護士が呼び出され、3人一致で会社更生の申立てを決定。その準備に取り掛かったものの、最後は私がすべて引き取ることに。昼は債権者や取引業者の応対に追われ、夜中にやっと申立書と添付書類の作成という、会社も私も大混乱の中での作業。10年以上分の勉強を数カ月でやったような事件だったので、会社更生開始決定が出たときはうれし涙が止まりませんでした」
それ以降、多くの会社更生事件に携わり※2、「30歳代で会社更生事件の申立準備から開始、計画立案認可を経て、終結するまで」を経験した。東京地裁商事部(民事8部)から小規模の土木建設会社の会社整理の検査役に選任され、その会社の再建にあたったこと※3で、自信と度胸はさらに増した。
ここで当時の「会社整理※4」の状況について高木氏の説明を借りる。「和議事件を担当する東京地裁の破産部(民事20部)では『和議は濫用されること』を前提に運用、倒産直後の混乱を鎮静化させるための弁済禁止など、いわゆる一般保全処分はなかなか出してくれない状況でした。私に言わせれば、まるで『和議事件の虐待』。ですから当時は、裁判所を頼りにしない私的整理でやるしかありませんでした。しかし私的整理には暴力団とつながりのある事件屋・整理屋が絡み、何かと面倒です。一方、会社整理は会社更生を扱う商事部(民事8部)の担当。当時、会社整理はまれにしか使われなかったものの、商事部は会社更生と同じ感覚で弁済禁止の保全処分を出してくれました。それを盾に、事件屋らにわずらわされず、再建を手早く進められます。光明が差したようでした」
再建はスピードが肝心。滞りなく中小企業に再建の道を歩ませられる方法を、高木氏は見つけた。
心筋梗塞(こうそく)からの“生還”で、訪れた転機
この事件をきっかけに倒産法を勉強し始めた高木氏。商事部(民事8部)がミニ会社更生法的に運用した「会社整理」を中小企業再建のための最も有用な制度と考え、それを世に広めるべく『商法上の会社整理手続※5』を書き上げた。精力的に実務をこなし、弁護士として最も脂が乗った時期だった。「帰宅後に徹夜で原稿を書き、そのまま仕事に出て2晩寝てまた徹夜という生活を1年半続けました。それで43歳の時に心筋梗塞の発作を起こし、病院に運ばれて3カ月入院するはめに。心筋梗塞は当時、助からない病気といわれましたから、復帰したときには依頼者も顧問先の方々も、見事にいなくなっておりました」
大病を患ったことを知らなかった友人の滝井繁男弁護士(元最高裁判事)が、あるとき大阪のゼネコンA社の事件を紹介してくれた。
「A社は筋の良くない施主と関係していたので、『高木なら断るまい』と持ってきてくれたのでした。その事件解決後、グアム島で開発事業を始めたA社は土地をめぐるトラブルで訴額が数十億円の民事裁判の被告になっていた。現地のアメリカ人弁護士が負けるかも知れないと言い出したとのことでした。そこで引き受けた私は、英語の分厚い訴訟記録を辞書と首っ引きで読み、裁判に立ち向かいました。A社の件は何とか和解で解決。その後、海外の事件がもう一つ続きました。おかげで、片言ながらも米国の弁護士と英語でやり合えるようになりました。病気をしなければ忙しくて英語どころではありませんでしたが、病気のおかげで英語の勉強が再開できました。何でもムダになる経験はないのです」
海外での事件が片付き、「せっかく身に付けた英語力がもったいない」と思っていたころ、園尾隆司氏※6が書いた「アメリカ新倒産法」の紹介論文を目にした。
「園尾さんの論文を読み、アメリカ新倒産法とチャプター・イレブンのすばらしさに驚きました※7。債務弁済の自動停止やDIPの制度(管財人を選任しないで経営者を続投させる)は、倒産直後の混乱鎮静のため裁判所の保全処分をとるのに四苦八苦していた私には、夢のような法律でした」
そこで高木氏は米国倒産法を学ぶために、50回以上渡米した。文献を集め、学者、弁護士、裁判官、連邦管財官などを訪ね歩いた。そして「日本の倒産法を使いやすいものにしたい」という思いを、『米国新倒産法概説』という1冊の本にまとめた。
「アメリカ倒産法の勉強のおかげで世界中に友人ができ、考え方も変わりました。例えばアメリカの弁護士や企業家は思いきり働いた後、早めにリタイヤし、プロボノ活動※8にいそしんでいることなどを聞きました。そんな生き方もあるのだと視野が広がりました。また大きなことをいえば『日本の裁判所、司法を良くしたい』と考え始めたのもそのころ。アメリカ倒産法が私の人生を変えたといっても過言ではないのです」...(以下略)